(2011.11.09.12:21~転記)
>「30日間、よくがんばったなァ」
……たった、「30日」で、済んだのか……
……ムカシハヨカッタ……
……w(--;)w”……
>川島町長
「党町議を4期務め、4月に町長に当選」。
(^^)g
長野県南牧村も、がんばれ~!!!!
島民励ます地域新聞
伊豆大島噴火 1986年
首都圏から100キロメートルの太平洋上に浮かぶ伊豆大島(東京都大島町)。この島で近年にない規模の噴火により1万人余の島民が島外へ脱出したのは、25年前の1986年11月21日のことです。町民が1カ月の避難生活を余儀なくされる、史上例をみない事態となりました。(略)中心部の元町市街に迫る溶岩流。泉津や岡田地区などに一次避難指示、同日午後10時50分には「一人の死者も出さない」と、全町民に島外避難命令が出されました。
島民は、船で待機するつもりで「脱出」を知らされないまま、着のみ着のまま東京や静岡に緊急避難し、その後、東京都区内の施設で避難生活を送りました。(略)
町民を港に集め、「Oさんがいない」といえば若い消防団員が走り、お年寄りや子どもを優先して誘導しました。気づけば桟橋を離れ、夜中に静岡・伊東市にたどり着きました。(略)その後、東京の避難所でも消防団服のまま避難者の世話係を務めます。消防団として先駆けて帰島し、町民に代わり家畜などの世話に当たりました。
ついた港に、他党に先駆けてきたのは共産党の国会議員や都議でした。日本共産党は当日国会議員団や都委員会の対策本部を設置、各避難所を訪ね町民を視まい激励し、救援募金活動を繰り広げました。
「区議、都議、国会議員の連携で党の活動は際立っていた。帰島後も、都議団全員が島に調査に来てくれました」。(略)
最後まで島に残り町長と同じ船で東京に着き、ただちに町議団3人で今後の対策を検討するため、議長に全員協議会を開くよう申しいれました。(略)
町議と党支部、党員が一丸となり、有権者比7%の「赤旗」読者をもつ党組織ならではのたたかいが始まります。(略)
緊急に求められたのは、プライバシーのない体育館やスポーツ施設での日常生活の改善と、家畜や作物の対策です。
町議団は全員協議会で、農産・水産関係者の一次帰島を主張すると同時に、国会・都議団と連携し、全避難所のテレビ設置や毛布の追加などきめこまやかな対策、観測体制の強化などを要望し、次々に実現します。(略)
都内の小学校にバラバラに編入された子どもたちを訪問し、学級通信「がんばれ しまっこ」を毎日発行しながらの作業でした。
「30日間、よくがんばったなァ サァこの力で島の復興だ」。帰島後、ただちに被害救済の「相談所」を開設し、(略)「くらしと営業を守り復興をめざす」緊急政策を発表しました。
大噴火の21年前、大島では584棟を全焼した元町大火と呼ばれる悲劇がありました。当時の「島のひろば」には、「被災住民と相談し町の自主性にもとづく復興を」と救済活動をする党の姿も。
「このときから苦難あるところ党あり、住民が主人公の復興をいっている。この経験が全島避難に生きた」と(略)
東日本大震災、大噴火から25年-。
当時の教訓を風化させてはならないと、川島町長は住民の声を生かした防災計画の見直しを進めています。(略)
(「大災害と日本共産党」4)
(日本共産党 http://www.jcp.or.jp/
機関紙「しんぶん赤旗」http://www.jcp.or.jp/akahata
2011.11.09.)
>「30日間、よくがんばったなァ」
……たった、「30日」で、済んだのか……
……ムカシハヨカッタ……
……w(--;)w”……
>川島町長
「党町議を4期務め、4月に町長に当選」。
(^^)g
長野県南牧村も、がんばれ~!!!!
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