併合100年 日本と韓国 ①
 第1部 支配と抵抗

 “実父の独立運動”に光

 朝鮮青年独立団は、わが民族を代表し、わが独立を期成せんことを宣言する-。
 30年ぶりに大雪が降ったという1919年2月8日の東京・西小川町(現西神田)。東京朝鮮キリスト教青年会(現在の在日本韓国YMCA)の講堂で数百人が集まり開かれた「朝鮮留学生学友会総会」で、朝鮮独立を求めた宣言文が採択されました。
 その約1ヶ月後、京城(現ソウル)にあるパゴダ公園(現タプコル公園)で独立宣言文が読み上げられ、「独立万歳」と叫びながらデモ行進が行われます。三・一独立運動です。東京での二・八独立運動に参加した学生がその宣言文を帽子に縫いこんで祖国に持ち帰り、三・一宣言文に影響を与えたといいます。
 朝鮮半島全土に広がった独立運動には約200万人が参加。日本は武力で弾圧し、7500人以上にも及ぶ死者が出たといいます。
 25年には治安維持法を公布し、日本は独立を願う人々を次々と弾圧します。しかし、その火は消すことができず、終戦間際まで続いていきます。


 治維法違反で

 「実父の独立運動参加が事実だと明らかになった。本当にうれしい」(略)
 シン・ヒョンウは(略)41年に日本に渡り(略)同年10月ごろから、日本留学中だった親類のシン・スンウ、シン・ギュシクらとともに会合を持つようになり、朝鮮独立運動の組織化を話し合ったといいます。
 12月8日に太平洋戦争が開戦するとヒョンウらは「日本は経済的に敗退し、必ず敗戦する」と見通し、朝鮮独立の好機が訪れたと判断。朝鮮に戻り民衆蜂起による独立達成のために組織化活動を展開すべきだとして、ギュシクを先陣として朝鮮に帰すことを決めました。
 しかし12月13日、スンウら7人は検挙され、治安維持法違反で起訴されます。「在横浜民族共産主義学生グループ策動」。43年12月23日、スンウは横浜地裁で懲役1年6月の判決を受けました。(略)


 南北分断の壁

 転機は2005年12月、ノ・ムヒョン政権下で発足した「真実・和解のための過去史整理委員会」が、埋もれた歴史の解明のために真相究明申請の受け付けを開始したことです。(略)調査官が独立運動でスンウが投獄された事実を突き止めました。
 委員会が受け付けた独立運動に関する真相究明申請は273件。このうち約3分の2は社会主義・共産主義系の運動だといいます。(略)「三・一独立運動までは民族主義の運動だった。三・一独立運動が弾圧された後、独立運動家が組織化の必要性を痛感したことや、ロシア革命の影響もあり、社会主義・共産主義系の独立運動が急速に広がった」と指摘します。
 左翼系の独立運動は南北分断の影響で、長年にわたり史実が埋もれたままになっていました。
 「実父は朝鮮戦争開戦以降、消息不明。住民登録上は生存していることになっている。死亡届を出すわけにはいかない」(略)

 「韓国併合」から100年。日本の植民地支配の実相と、友好に向けた未来への展望を考えていきます。

(つづく)
(日本共産党 http://www.jcp.or.jp/
 機関紙「しんぶん赤旗」http://www.jcp.or.jp/akahata
 2010.08.22.)


※この連載は長~くなりすぎ~そうなので、全文をここにアップ(無断転載)するのは、ちょっと無理があると思います。

 この続きが読みたい! と思ったかたは、

 最寄りの日本共産党事務所、または市区町村の日本共産党議員団(お役所に電話をすればつないでくれます)に、お問い合わせくださいませ……☆☆




(余談ですが、この記事は、一面トップです……。)

コメント

霧木里守≒畑楽希有(はたら句きあり)
2010年8月22日20:41

>消息不明。住民登録上は生存していることになっている。

 ……ん……? (^^;)????

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