(2008年01月13日03:09)

(以下、出典はこちら☆)
http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=3818139&;;id=28424

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 知識人の独創性と意志とを脅かすかに思われる四つの圧力…(略)…あらゆる社会に蔓延しているのだが、その蔓延ぶりにもかかわらず、そうした圧力にゆさぶりをかけることはできる。
 そのようなゆさぶりをかけるもの、それをわたしはアマチュア主義(アマチュアリズム)と呼ぼう。
 
 アマチュアリズムとは、専門家のように利益や褒賞によって動かされるのではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって衝き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追及することをいう。

 さて、四つの圧力のうち、最初にくるのは専門分化(スペシァライゼーション)である。

 現在の教育制度では、教育レヴェルが高くなればなるほど、そのぶん教育をうける者は、狭い知の領域に閉じこめられる。(略)問題なのは、専門能力が、直接的な関心事…の外にあるものをみえなくさせ、一般的な教養を犠牲にして、人を特定の権威なり規範的な考えかただけに迎合させることであり、(略)いよいよ専門知識をたっぷり仕込まれた□□知識人にでもなろうあかつきには、あなたは、ただただ従順な存在となり、□□研究の分野における領袖(リーダー)とと呼ばれる学者の顔色をうかがい、彼らのお気に召さないらしいものを、すべて排除してしまう。(略)

 エキスパートになるには、しかるべき権威筋から資格証明をもらわねばならない。その過程で、あなたは、専門分野にふさわしい言葉づかい、いつも典拠とすべき正しい文献、但し縄張り意識などをおしえこまれてしまう。

 だが結局のところ、「専門的知識」というのは厳密にいうと、知識本来のありかたとはなんの関係もない。(略)
 エキスパートたちは、けっして自分の領分から外に出て、ものごとを相対化してながめることをしない。(略)

 専門主義の信奉者にはなかなか逃れられない専門主義(プロフェッショナリズム)の第三の圧力とは、専門家に権力や権威ににじりよらせ、専門家に政府側の要請に応ずるみかえりに特権を、政府機関への直接雇用というご褒美を与えるものである。(略)

 知識人にとって問題になるのは……専門化をありがたがる価値観とは異なる一連の価値観や意味を表象するには、どうするかということである。

 専門主義とは異なる一連の価値観や意味、それをわたしは《アマチュア主義(アマチュアリズム)》の名のもとに一括しようと思う。

 アマチュアリズムとは、文字どおりの意味をいえば、利益とか利害に、もしくは狭量な専門的観点にしばられることなく、憂慮とか愛着によって動機づけられる活動のことである。

 現代の知識人は、アマチュアたるべきである。アマチュアというのは、社会のなかで思考し憂慮する人間のことである。(略)

 もっとも専門的かつ専門家むけの活動のただなかにおいても、その活動が国家や権力に抵触したり、自国の市民のみならず他国の市民との相互関係のありかたにも抵触したりするとき、知識人はモラルの問題を提起する資格を持つのだ、と。

 さらに、アマチュアとしての知識人の精神は……専門活動のなかにはいりこみ、それをかえることもできる  もっといきいきとした、ラディカルなものに。

 この場合、そうするであろうと期待されていることをなすのではなく、逆に問いかけてゆくのである。

 人はなぜそれをするのか、
 誰がそこから恩恵を得るのか、
 それが個人的な計画と当初のもくろみと、
 どのように結びつくのか、
 と。

 知識人なら誰しも聴衆と支持者がいる。問題は、そうした聴衆が、知識人の話すことに満足し、そのままずっと、心地よい気分でいられるか、さもなくば、疑問をつきつけられたり、全面対決にひきずりこまれたり、より大がかりな民主的社会参加に動員されるかの、いずれかであるということだ。(略)

 いったい知識人はいかにして権威に語りかけるのか。知識人は権威筋に、専門家としてにじりよるのか、それとも、報酬を得ることのない、アマチュア的良心として接するのか。

  

◆コメント◆

歌いながら大地を歩く 2008年01月13日 03:31

(☆続き☆)

 プロフェッショナル…の感性とはいかなるものか…なにしろ自分の仕事について語る彼の語彙たるや、まさに「隠語」と称してかまわない体(てい)のものであったのだから。(略)

 専門用語とは、ある意味で、純然たるアウトサイダーのあけすけな詮索をこばんだり、はぐらかすために意図されたものといえよう。(略)
 
 政策決定の現場に近いところにいて、職務や予算や昇進を左右するような権限を行使できる知識人たちは……系統的かつ執拗に、個人個人を組織的かつ念入りに観察し、専門分野を侵略するような個人とか、論争癖や非協力的な雰囲気−−と、うえにたつ人間からはみられるもの−−をにじませるものを、どちらかというと敬遠しがちである。……自分のまわりには、忠誠心旺盛で、考えかたも同じで、同じ言語をしゃべる者を配しておく(略)

 このような専門家の立場、つまりもっぱら権力に奉仕し、権力からおこぼれを頂戴しようという立場は、批判精神や旺盛な独立精神に裏づけられた分析とか判断−−わたしの観点では、これこそ、知識人がなしうる最大の貢献であるべきだが−−に、まったく資するものではない。

 いいかえると、本来の意味でいう知識人は、政府とか大企業のために、さらにいえば同業者仲間のために、計画目標達成に努力する代理人でもなければ被雇用者でもない。

 ところが、政府や大企業につかえる場合、モラルの感覚をひとまず脇におくようにという誘惑の声、またもっぱら専門分野の枠のなかだけで考えるようにし、とにかく意見統一を優先させ、懐疑を棚上げにせよという誘惑の声は、あまりに強力で、それにうちかつのはむつかしい。(略)

 すでに示唆したように……相対的な独立を維持するには、専門家ではなくアマチュアの姿勢に徹することが、なにより有効である。

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 まぁそんな感じだね。

 だれであれ、私を、「専門的な知識がない」というだけの理由で脅して、「恥じ入らせて」黙らせようなんてことは、ぜったいに出来ないよ。

 ビバ! シロウト!

 無学者にも一寸の魂ならぬ発言権があるのが、
 民主主義っていうやつの素晴らしいところさ!

 ( ̄^ ̄)v


TORATONTON 2008年01月13日 15:14

私、素人です。
私が、理解できて、納得のいくような、世の中のあり方を求めます。

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