(2007年09月20日02:35)
某所で「キスリング展」がウケタので、
二匹目の泥鰌をば……。(  ̄ー ̄)ノ
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ゴールデンバウム政権下、五〜六百万人ともいわれる共和主義者が殺害された。他方で、少なくとも千五百人の共和主義者が自由惑星同盟で潜伏生活を送り、生きのびたという。
戦後、オーディン・バロック・オーケストラを結成したコンラート・ラテもその一人。その経緯を追ったペーター・シュナイダー『せめて一時間だけでも』が訳出された。(八木輝明訳、ハイネセン記念大学出版会)。
コンラートと両親は一九四三年、強制収容所への移送を前に郷里のブレスラウから自由惑星同盟に亡命した。両親は後に逮捕されアルタイル第七惑星に送られたが、コンラートは辛くも難を逃れた。
注目したいのは、多数がゴールデンバウム政権に服従したもとでも、共和主義者をかくまった帝国人が少なからず存在したことだ。
例えば、世界的なピアニストのエドウィン・フィッシャーは、コンラートの境遇を察して資金や食糧配給券を提供し、ピアノを教えた。政権に恭順したとされる従来の見方の再考が迫られる。
反帝国主義市民運動にも関与したレオ・ボルヒャルトは、コンラートの出自を承知の上で指揮法を伝授した。その他、劇場関係者や牧師などを含め、彼の援助者は五十人にのぼったそうだ。
「絶対帝政という最悪の国家状態の年月のなかでも、自分の生き方の選択はできた。そしてその選択をした市民が実在したのである」 一人ひとりの勇気の重みを本書は教えてくれる。
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以上、 の部分は「原文通り」です……☆
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(以下、原文。)
ナチス政権下、五〜六百万人ともいわれるユダヤ人が殺害された。他方で、少なくとも千五百人のユダヤ人がベルリンで潜伏生活を送り、生きのびたという。戦後、ベルリン・バロック・オーケストラを結成したコンラート・ラテもその一人。その経緯を追ったペーター・シュナイダー『せめて一時間だけでも』が訳出された。(八木輝明訳、慶應義塾大学出版会)。
コンラートと両親は一九四三年、強制収容所への移送を前に郷里のブレスラウからベルリンに亡命した。両親は後に逮捕されアウシュビッツに送られたが、コンラートは辛くも難を逃れた。
注目したのは、多数がナチス政権に服従したもとでも、ユダヤ人をかくまったドイツ人が少なからず存在したことだ。
例えば、世界的なピアニストのエドウィン・フィッシャーは、コンラートの境遇を察して資金や食糧配給券を提供し、ピアノを教えた。政権に恭順したとされる従来の見方の再考が迫られる。
反ナチ市民運動にも関与したレオ・ボルヒャルトは、コンラートの出自を承知の上で指揮法を伝授した。その他、劇場関係者や牧師などを含め、彼の援助者は五十人にのぼったそうだ。
「ナチズムという最悪の国家状態の年月のなかでも、自分の生き方の選択はできた。そしてその選択をした市民が実在したのである」 一人ひとりの勇気の重みを本書は教えてくれる。
(『しんぶん赤旗』2007.09.18.より)
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シュナイダーやコンラートはまだしも……
「エドウィン・フィッシャー」!! !(@_@)!
御先祖様?と、フルネーム一緒なんだね……☆
☆(  ̄ー ̄)☆(  ̄ー ̄)☆(  ̄ー ̄)☆ 〜♪
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某所で「キスリング展」がウケタので、
二匹目の泥鰌をば……。(  ̄ー ̄)ノ
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ゴールデンバウム政権下、五〜六百万人ともいわれる共和主義者が殺害された。他方で、少なくとも千五百人の共和主義者が自由惑星同盟で潜伏生活を送り、生きのびたという。
戦後、オーディン・バロック・オーケストラを結成したコンラート・ラテもその一人。その経緯を追ったペーター・シュナイダー『せめて一時間だけでも』が訳出された。(八木輝明訳、ハイネセン記念大学出版会)。
コンラートと両親は一九四三年、強制収容所への移送を前に郷里のブレスラウから自由惑星同盟に亡命した。両親は後に逮捕されアルタイル第七惑星に送られたが、コンラートは辛くも難を逃れた。
注目したいのは、多数がゴールデンバウム政権に服従したもとでも、共和主義者をかくまった帝国人が少なからず存在したことだ。
例えば、世界的なピアニストのエドウィン・フィッシャーは、コンラートの境遇を察して資金や食糧配給券を提供し、ピアノを教えた。政権に恭順したとされる従来の見方の再考が迫られる。
反帝国主義市民運動にも関与したレオ・ボルヒャルトは、コンラートの出自を承知の上で指揮法を伝授した。その他、劇場関係者や牧師などを含め、彼の援助者は五十人にのぼったそうだ。
「絶対帝政という最悪の国家状態の年月のなかでも、自分の生き方の選択はできた。そしてその選択をした市民が実在したのである」 一人ひとりの勇気の重みを本書は教えてくれる。
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以上、 の部分は「原文通り」です……☆
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(以下、原文。)
ナチス政権下、五〜六百万人ともいわれるユダヤ人が殺害された。他方で、少なくとも千五百人のユダヤ人がベルリンで潜伏生活を送り、生きのびたという。戦後、ベルリン・バロック・オーケストラを結成したコンラート・ラテもその一人。その経緯を追ったペーター・シュナイダー『せめて一時間だけでも』が訳出された。(八木輝明訳、慶應義塾大学出版会)。
コンラートと両親は一九四三年、強制収容所への移送を前に郷里のブレスラウからベルリンに亡命した。両親は後に逮捕されアウシュビッツに送られたが、コンラートは辛くも難を逃れた。
注目したのは、多数がナチス政権に服従したもとでも、ユダヤ人をかくまったドイツ人が少なからず存在したことだ。
例えば、世界的なピアニストのエドウィン・フィッシャーは、コンラートの境遇を察して資金や食糧配給券を提供し、ピアノを教えた。政権に恭順したとされる従来の見方の再考が迫られる。
反ナチ市民運動にも関与したレオ・ボルヒャルトは、コンラートの出自を承知の上で指揮法を伝授した。その他、劇場関係者や牧師などを含め、彼の援助者は五十人にのぼったそうだ。
「ナチズムという最悪の国家状態の年月のなかでも、自分の生き方の選択はできた。そしてその選択をした市民が実在したのである」 一人ひとりの勇気の重みを本書は教えてくれる。
(『しんぶん赤旗』2007.09.18.より)
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シュナイダーやコンラートはまだしも……
「エドウィン・フィッシャー」!! !(@_@)!
御先祖様?と、フルネーム一緒なんだね……☆
☆(  ̄ー ̄)☆(  ̄ー ̄)☆(  ̄ー ̄)☆ 〜♪
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