(2007年06月17日04:07)

(釣れた魚@マリノ准将にエサ♪)(w)

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 民主化20年の韓国(2) 国民全体の要求

「市民革命」

「乾燥地帯」などの作品で知られる小説家の柳時春氏(56)は六月民主抗争を「韓国で初めて成功した市民革命」だと位置付けます。柳氏は一九八五年に「民主化実践家族運動協議会」の結成に参加し、八七年には国民運動本部の常任執行委員でした。
 柳さんは国民運動本部の役割をこう説明します。「とにかく、主権者である国民に大統領を選ばせろ、というのが国民の要求だった。正確に言えば、私たちは運動をつくったというより、前を走る国民の声を一つにして響かせる拡声機のようなものだった」
 
 銀行員の洪泰栄さん(48)は、昼休みになると職場を飛び出してデモに参加する「ネクタイ部隊」の一人でした。「七九年に朴大統領が暗殺されたときは大学生だった。民主化を求めてデモをやったが、市民の反応は冷たかった。多くの市民は混乱に乗じて北朝鮮が攻めてくるかもしれない、と心配していた。八七年には雰囲気が一変していた」
 
 軍事独裁政権で国家安全企画部の長官特別補佐官だった朴哲彦氏(64)は、事態収拾案の作成を任されていました。朴氏は「視点によって評価は違うだろうが」と前置きした上で、こう説明します。
 
 
 「冷戦」瓦解

 「八七年には、国民生活がある程度向上し、多くの人に自由を求める余裕ができていた。民主化は逆らえない国民全体の要求になっていた。八八年には国の威信をかけたソウルオリンピックも控えており、国際的には『冷戦体制』が徐々に瓦解していくときだった」

 政権内部には強硬派も多く、全斗煥大統領も一度は軍出動を命令したといいます。しかし、もはや「北朝鮮の脅威」を理由に民主化運動を押さえつけることは不可能だ、というのが朴氏の実感でした。
 
 国民運動本部の常任執行委員長を務めた呉忠一牧師(67)は、廬武鉉大統領が国会で野党に弾劾訴追された二〇〇三年三月、国民の反応をみて「民主主義が根付いた」と確信したと言います。

「多くの国民が連日のように街頭で弾劾反対集会を開いた。あれは支持者による抗議行動であると同時に、国民がたたかいとった権利を政略によって侵害されたことへの怒りだった」

 (ソウル=面川誠)
 (「しんぶん赤旗」2007.06.13.)

 (☆太字や大文字や色字は筆者。)

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 ……余談だが……

 「朴哲彦」氏が、だんだん「メルカッツ提督」に、
 見えてきてしまいました……☆ (^◇^;) ☆

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