https://www.youtube.com/watch?v=KJPcknlUanE
Epic Anime OST Mix 6 | 1 Hour of Epic and Powerful Music

おばんです。19:15になっちゃいました。

5連休!…も、あったのに、原稿にたどりつけない…(つく気もナイ★)
と苦笑しながら、筋肉疲労回復のため例によってPCの途中?で寝落ちして、
昼寝3時間。(^^;)

起き出して3時間ほど家事やって…

ようやく机に辿り着き、堆積していた雑資料山を掘り崩し…

一昨日の収穫物までようやく発掘しましたら。

(参照⇒http://85358.diarynote.jp/201805041039481097/


…御先祖様!…ゆかりの地…ッ!!
  ↓
https://blog.goo.ne.jp/uemura1048/e/53fa3901b4129d69df8cd0b96c43950c
(浜益)

 浜益区川下の荘内(庄内)藩陣屋跡である。安政六年(1859)、幕府は蝦夷地を奥州六藩に分け与え、その警備を命じた。庄内藩はハママシケを含む日本海に面する西海岸一帯(留萌・苫前・天塩など)四十里に及び地域を拝領した。万延元年(1860)家老松平舎人を総奉行として現地調査を行い、意見書を提出した。この調査をもとに、二代目総奉行酒井玄蕃が赴任し、警備・開拓の本陣をこの地に置いた。奉行所を始め、寺、神社、長屋などが建設され、集落が形成された。一行は永住計画に基づき、各種の職人や農民も集めた。資材、人員の運搬のために渡航用の弁財船も建造され、往復した。この時、黄金川からこの場所までの水路を設けたが、その費用に千両を要したため「千両堀」と称されたという。現在もその遺構が残っているそうである。慶応四年(1868)、戊辰戦争が勃発したため、庄内藩士は急遽引き上げることになり、七年に及ぶ年月と莫大な費用をかけた庄内藩の蝦夷地拝領の警備、開拓は幕を閉じた。


ハママシケ荘内藩陣屋跡

 荘内藩陣屋跡は、訪ねる人もほとんどいないためか、手入れが全くされていない状況であった。陣屋の門らしきものは復元されているが、一歩中に入ると雑草が生い茂り、とても史跡とは思えない状況であった。


(どおりで…(^^;)…道中、「来たことないのに、懐かしい」

「…あの山!…鳥海山にそっくり…ッ??」とか、思ってたんですが…

客観的に言っても(誰が観ても)「似てる」地形と風景。だったんだな…w)

https://kotobank.jp/word/%E5%BA%84%E5%86%85%E8%97%A9%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%82%B1%E9%99%A3%E5%B1%8B%E8%B7%A1-1444141
庄内藩ハママシケ陣屋跡


(そして「例によって」なんか変だ…ッ!?…と思いながらの「大迂回」ルートでしたが…www

アルマンディン神兄様だけじゃなくて、
「リアル母方の祖父」(一時期わたしの守護霊やってた)が、

載ってた(憑いてた)わけか…www

(いろいろ思い当たるフシが…w)


(そして…何故か!?「創価学会」発症の痴…!???(@◆@;)★


…こっちは知ってたんですけどね…。

http://donandes.com/
>明治初期の庄内藩士達による壮絶な苦難を乗り越え、開拓に成功して以来、
> 歴史的深いつながりを持つ木古内町と山形県鶴岡市。


まぁ、「道に迷わなければ」現住所から自転車で2時間半ほど?ですし…。

どうやら、「通う」(または棲み着く?)ことに、なりそうです…


(厚田川の上流は…ほとんど天国!)…!(^0^)!



(この項いずれまた…)。(時間切れ。)

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